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デリュージョン・ストリート 15


神谷俊美第四写真集『山海図』より

ああ うる はしい 距離 デスタンス


“山海図”とは中国上代の、十八巻に及ぶ大冊の祈祷書「山海経」の異称である。幾多の時代を経て編纂されたこの時間の書の彼方に、広袤とした自然と秘められた神々の物語が、炎の如くゆらめいている。これは亡霊なのだろうか。
 神谷氏の作品に触れてこの謎めいた濛気にとらわれるのは当然であった。軽薄な抒情に陥りがちな風景写真が、見事に、絵画に近い質を保ちながら、特異な時間の翳りを帯び妖艶な熱気を漂わせ、不思議な物語を囁いているからである。欝蒼とした樹々の奥から曳れる細く深い声のように、静謐にしてかつ激しいうねり、――あの鏡の王国に匿されたローマンス。
 光を領有するものに幸あれ。初めにあるべき言葉は光の息子たちの媾合から誕生するのだから。
 写真については門外漢に過ぎないので、技術の問題について述べることは控え、作品の問題として、つまり時間の問題に触れてみよう。神谷氏の写真が作品として眼前に示されている時、それは絵画とか詩篇とかのありように似ている。それ故、作品行為としてみると次のようなシェーマが考えられる。
 A、自然(被写体)とカメラ(レンズ→フィルム)
 B、カメラマンとカメラ
 C、現像・焼き付け等(推敲過程)
 ここで、自然とカメラマンとの関係は、肉の教養として前提でありながらも、それ故に行為の問題からは除外されるべきである。なぜなら、それは技術の問題と同様に、当人の事実に過ぎないからである。だから、除外することに依って一葉の写真は詩篇として語り掛けて呉れる。カメラマンとはそこでは契機の偶然性であり、自然は現実性を捨象した擬態として考えられる。Cは擬態としての自然を全体性へ向かうものとして擦る行為といえよう。さて、擬態としての自然が全体性、つまり形態をもつということは如何なることなのか。形態とは肉、すなわち物質である。物質とは、だが現実を意味しない。倒錯論法を使うわけではないが、現実とは物質の擬態である。少くとも現実という名称で呼ばれる空間に過ぎない。勿論要素ではあるが、それも見かけ上のことだ。あるいは時間を線に例えると、その線を垂直に切断した時の断面に過ぎない。物質とは、その線の方向に切り同時に垂直に切ったときに現れる何ものかである。換言すると、時間の全体が世界とともにその一点に凝縮され、そうすることに依って何ものかへと開かれるものである。だから物質とは逆からみると、現実の擬態としてその一部に含まれるかのようにみえながら、現実とは最も遠く、現実を拒み、拒むことに依って何ものかヘ向かうものである。この何ものかとは、目眩く作品宇宙のことである。そのような発想からさらに独断すれば、物質とは行為すなわち事件自体を自らの動詞・滋養として摂り、物質化してゆく。それ故、Aは時間の方向に沿った世界の切断であり、Bは垂直の切断であり、カメラマンはそれを同時に行う契機の偶然性であり、Cは事件を物質に取り込む作業と言えまいか。
 この作品集は、距離を空間から自然の擬態へと転じ、さらに時間そのものに転身させている。距離は時間であることに依って、物質の来歴を語り始めるのだ。
 十数億年もの間、風の中で眠っていた砂漠こそ、少年の旅の始まりであった。夜と靄の中をおどろな寂寥が舞う。熱い声音があちこちから聞える。山道の端れの小舎で呻き声が、おお不良少女とちんぴらの逢瀬よ。母は少年が父を慕うような愛の逞しい胸板であった。作品は、エルマフロジットに纏るエロテシィズムを歌う。母の顔をした海は、追い求めている父だ。少年はこれと交わり、自ら父になり、息子となった海を愛する。ポラリザシオンの旅路は意図的な図柄であり、時間の来歴を抒情に見せかけているのだ。ここにあるのは純粋に、事件への彷徨と参入である。アントニオーニの彩色豊かな映画「欲望」の透明な風景の中で躍る、空洞としてのテニスの白球が、モノクロームの中では実在し、対照的に鬼気迫る澱として作品の中を転ってゆく。ありうべきものこそ肉。栄光を浴びた物質。光を領するるものは時間の距離を、偉大なる男根を握っている。
 ちなみに、神谷氏の名刺には正字で“~”と記されている。

(神谷俊美第四写真集『山海図』跋文/1976年刊)




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